慎之助引退の裏側 かなり長いです

現役生活にピリオドを打ったワケ~巨人・阿部慎之助が描く未来


こんな記事が、スポーツ報知に載った。

素晴らしく、色々な考えをさせてくれる内容だ。



正直、高橋由伸、阿部慎之助、形は違えど、まだ出来る選手を引退に追いやった原監督にはイライラしていた。

高橋由伸の時は、原監督(フロント)が次の監督になるべく後進を育てず、次の監督も決めず、高橋由伸は引退試合もないまま、その年、規定打席には足りなかったが3割を打ち、一番打っていた高橋由伸を無理矢理に近い形で監督にしてしまった。また、常勝軍団に陰りが見え、若手を育ててないまたまチームを高橋由伸に渡し苦しめた。

阿部慎之助にもかと腹が立ったが、素晴らしい引退までの軌跡があったので、本当はどうして引退を決めたか、真実を知りたかった。



それを書いたのが、スポーツ報知だ。

以下転記する。



現役生活にピリオドを打ったワケ~巨人・阿部慎之助が描く未来

2019年10月29日 17:00スポーツ報知



現役続行のつもりだった。


その思いを目の前に座る恩師にも伝えた。


「来年までは選手としてユニホームを着て、それできっぱり辞めようと思っています」


5年ぶりのリーグ優勝を果たした翌日、9月22日の神宮でのヤクルト戦試合後。監督室に慎之助はいた。


「いつか来年のことを話そう」と原監督からは言われていた。その時が来た。背筋を伸ばし、心地よい緊張感と共に思いは伝えた。


敵地のクラブハウスの一角にある監督室は、味気ない。最低限の机と椅子とロッカーがあるだけの殺風景な場所。たった二人きりの時間が流れていた。


「そうか。だけど、お前さん抜きのジャイアンツを強くしないと始まらないのも、事実なんだよ」


「やっぱり、居たら頼ってしまう」


「慎之助の居ないチームを強くしなくちゃいけない」


自分に向かって目を見開いて、指揮官は思いのたけを打ち明けてくれた。


グツグツと沸き立つような、血の通った言葉が心に突き刺さった。


「僕のこと、僕の将来のことも含め、そりゃ監督はある程度は考えてくれてているだろうな、とは思っていた。ただ、監督の話は、僕の想像を優に超えていた。自分では予想だにできなかったレベルで、僕のことを考えてくれていた」


その熱意で、自分の気持ちが揺らぐどころか、確実に変わってきていることをその場で感じ、

そして決意した。


「今年限りで、辞めます」


原監督に頭を下げ、固い握手をしている自分がいた。


「そこまで僕のことを考えてくれていたんだという思いに加え、やっぱり『慎之助抜きのチームを強くする』という言葉がストンと入ってきたんだよね」


原監督は阿部が背負ってきたものを、そっと降ろしてくれたのかもしれない。愛溢れる言葉に、今が引き際と考えた。


「気持ちの葛藤はなかったわけじゃないし、正直、話している時に泣きそうになった。でも、我慢した。それは監督に対して、現役に未練があると思わせたら、申し訳ないと思ったから」


長い、長い旅が一区切りを迎えた。


19年間の現役生活を終える決意をして、満足そうに、そして、少しだけ寂しそうに言った。


「19年間、本当にいろんなことがあった。けがもたくさんしたし、もう、今日はどこかが痛いとか思わなくてもいいんだなって思う。どんなときも背中を押してくれたファンの方々に、感謝の思いしかないです」


大事な家族にもすぐ、報告した。


原監督との会談を終えると、帰宅を待たずに真っ先に悠夫人に電話を入れた。


「今年で辞めるわ、って言ったら『えーーーーーーっ!』って。そりゃ、来年も現役を続けると思っていたんだから、驚いてた」


決めたからには、伝えたい人たちがいる。


夫人から始まり、次々に携帯で連絡を入れ始めた。


「僕今年で辞めます」


お世話になった人たちに、そのひと言を口にすると、目頭が熱くなった。


抑えられなかった。


涙が頬を伝った。止まらなかった。


ただどうしても、涙を見せたくない、泣き声を聞かせたくない相手がいた。


坂本勇人には、短い言葉で引退を告げ、電話を切った。


「今年で辞めるからな。後は任せたぞ」


翌日23日のヤクルト戦試合後に、チームメート全員の前で引退の決意を伝えた。


グッと涙はこらえた。


ジャイアンツのユニホームを着て、勝負をし続けてきた。野球選手として流す涙は、日本一というてっぺんに立った時に、と決めていた。


2軍という場所



指導者生活が間もなく、始まる。


2軍監督。


自分が描いていた青写真とは、ちょっと違っていた。


「来年で現役を終えて、再来年はユニホームを着ずにいようと思っていた」


「色々な国の野球を見て勉強して、もし、何かしらの形で巨人に籍を置けるなら、合間を縫って現場で選手に何か伝える役割もできたら、と」


だが、指導者としての責務を託された。


「必要とされてポジションをいただけたし、今は2軍監督として頑張ることしか頭にない」


入団1年目からレギュラーに定着した。松井、高橋由ら、つわものぞろいの中でもキャラクターを確立させた。裏を返せば、2軍生活はけがしたときくらいだった。「


確かに、あまり2軍での経験はない。でも、1軍でも3年目くらいまでは下積みのような感じだった。ものすごく練習させられた。それが身になって長くできたという自負もある」


今年で巡回打撃コーチを退いた内田順三さんとの日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡

った。


「自分が引退を決断したときに内田さんに連絡を取って、若い時のあの下積みがあったから僕もここまでできましたと伝えたら『そう言ってもらってありがとう。コーチ冥利に尽きる』と返してくださった」


1軍にいるだけが目的ではない。「どうすれば1軍で活躍できるか」と考えながら取り組んだ、下積み時代の春季キャンプは、厳しかった。


「キャンプの夜間練習は今でも覚えてる」


宮崎の夜。宿泊先のホテルから、練習場まではマイクロバスで約10分の移動。その間、一人として声を出す者はいなかった。


「しんどいの。しんどいから、口をきけない」


「でも内田さんは口酸っぱく言っていた。『シン、きついのはわかる。だけど、これをやったら絶対、将来いいことがあるから頑張れ』って」


「今でも心に刺さっているし、やっぱり大事だったと思っている」


つらい思いをしたのは自分だけではない。1軍で活躍したほかの選手もまた、同じ厳しさを味わった。


「(阿部より2学年上の)二岡(智宏)さんも一緒にやった。清水(隆行)さんは(二岡より3学年上で)当時、27、28歳くらい。でも、志願して来ていた。そして練習中も誰もしゃべらない。いや、しゃべれなかった」


楽しみだった夕食も、口にできない日々だった。


「まず、通常練習から帰ってきても、夜ご飯なんて食べられない。だって、その後の夜間練習は1時間打ちっ放しだから。そこでガッツリ食べたら、バットが振れない」


そんな選手たちを心配して、宿舎の台所では夜食を作って待っていてくれた。


だが、それすらも満足に口にできない。


「部屋に持ってきてくださるんですよ。だけど、食べたいという気持ちがおきなかった。でもやっぱりちょっとだけ食べないと、と思って口にするけど、全部食べられずに、すぐに寝ていた」


1軍選手と同じことをこなしているだけでは、東京ドームでは活躍できない。2軍監督としてどう、選手を押し上げるのか。


「1軍の選手は量より質。でも、若い選手は未知だから、質より量。僕もそういう意識で取り組んできたし、そこで培ったものは大きい。来年は、僕の現役時よりももっとしんどくなると思う」


慎之助野球とは



「野球に関しては厳しくやる。技術もそうだけど『いろは』というか、『野球』を教えたいと思っている」


聞き手の目をまっすぐ見つめながら、ゆっくりと話すその姿に、強い意志が感じられた。


ただ打って、守ってというだけが野球じゃない。


「やみくもに進むだけじゃなくて、引くことが必要な場面も出てくる。それはプレーだけじゃなく、精神的な部分も含めて。もっと分かりやすく言うと、考えて野球をやることをテーマにしたい」


20代の選手が多い2軍では、時に進むべき道が分からなくなることもある。だからこそ、「自分」を強く意識させると言う。


「自分でどうしたいのか、どうなりたいのかを持っていないといけない」


将来の自分を思い描きながらの練習が一番、身になる。大事に考えているのが、練習後の自主トレーニングだ。


「自分の時間を一番大事にしないと。まずは静観しようと思う。じっくり動きを見た上で、選手には『お前はどうなりたいの』という話をしようと思う」


原監督を始め、歴代の監督の姿は脳裏にこびりついている。引くことと、そして時には押すことも大切なのは、よく分かっている。


「目指すべき道を勘違いしている選手も出てくると思う。どう見てもアベレージヒッターなのに『ホームランバッターになりたい』と言ってきたら、悪いことではないけど、『調子に乗るな。夢は寝てから見ろ』って言わないといけない。将来的にそうなりたくても、まずはやるべきことがあるし、できることがあるはずだから」


巨人は1、2軍に加え、3軍もある。1軍の選手層は厚く、乗り越えるのは容易ではない。


「1軍で活躍するために今ここで頑張らないと、というのを理解させたい。ジャイアンツの2軍は、1軍ありきのものだ、というのを伝えないと」


「1軍に行って、まずはまぐれでもいから結果を出して、そっから定着できるような選手を作らないと。そういう使命はある」


原監督の思いを継承し、さらに原監督に渡す戦力を整える。


ユニホームを脱ぐことなく、指導者になる。2軍の若手からすれば、『あの阿部さんが監督』という意識が芽生えて当然だ。


「悪い意味でそういうものが出ないように、こちらのハードルは下げる」


「『何でできないんだろう』ではなく、『絶対にできないだろうな』と思ってすべてを見るようにする」


選手時代の経験も監督業には生きてくる。


「キャッチャーとしてリードしていたときも、エースの菅野には『ここだぞ、ここに来いよ』とミットを構える。でも、経験の少ない若手には『この辺に投げればいいよ』とやってきた。それと考え方は同じ」


何も相手は投手だけじゃない。兄貴分として、年下の選手と触れ合ってきた。


なかなか自分の気持ちを出せなかった重信には、何度も自分らしくプレーすることの重要性を説いた。


「重信には野球を楽しそうにやってほしかった。最近は技術力も上がり、結果を出せば喜びを爆発させてるでしょ。あれで、いいと思うんだよね」


そして今季、二塁手として頭角を現しながら、シーズン終盤に差し掛かってきた戦いの中で、満塁でなかなか結果の出せなかった若林も、肩を抱いて励ました。


「若林が打てない時に、ベンチの原監督が悔しがった。僕が一塁で、若林は二塁。守備に就くときにうつむいていたから『監督もお前のことを期待しているから悔しがってくれる。それを理解して、次は打つと思わなくちゃ』と話したね」


感情を押し殺さなくてはいけない時もあるが、いつもクールに振る舞う必要はない。


時に喜び、時に悔しがって、そして次への糧にすることが、いいプレーにつながる。


「若いからとか、年数が浅いからとかで自分を閉じ込めてはいけない。せっかく、ポテンシャルが高くても、周りが見てつまらなさそうにしていては損するだけだから。調子に乗ってばかりではだめだけど、そういう雰囲気は大切」


“阿部二世”の誕生は



「僕たちの中で責任転嫁だけは絶対にしないし、させない。1-2で負けると、今日は打てなかったから負けた、というような雰囲気にだけは絶対にさせない。そんなことをやっているうちは勝てないし、選手も育たない。だって、チームなんだから」


現役時代はホームランバッターだったコーチもいれば、アベレージタイプのコーチもいる。脚力で勝負してきた選手もいるなど、バラエティーに富んだコーチ陣だ。


「例えば村田修一がコーチとしていて、僕が監督となると、どうしても長打を意識しがちになることもある」


「でも、アベレージタイプの選手もいる。そういうタイプの選手も当然、チームには必要。それなら、松本コーチは外野守備のコーチだけど、彼に打撃のことを教えてもらうように僕が指示していくのもアリだと思う」


今年、2、3軍は、コーチを専属にせず、名称を「ファームコーチ」として行き来した。来年も垣根を外して指導することが重要になる。


「担当ポジションを意識しすぎるのも良くない。全員がファームのコーチ。もちろん、自分の担当はしっかり教えてほしいけど、それだけで終わっていてはチームは強くならない」


「聞く側の選手が混乱しないようにしなくてはいけないけど、気づいたことをほったらかしにするのではなく、みんなで指摘して進んでいかないといけない」


2000安打、400号を達成し、巨人史上最高の捕手として活躍した。


周囲が期待するのは「第二の阿部慎之助」育成だ。


「自分で言うのもなんだけど、簡単なことではないと思う」


「それは僕のような、というだけでなく、現役時代に戦った名捕手の方々のような、球界を代表するキャッチャーというのは簡単には育てられるものではない」


「でも、それに近づけられるような選手を今後育てられれば、巨人はもっと常勝軍団になる」


慎之助監督は、自分の育ってきた「常勝巨人」「勝たなければいけない巨人」という当たり前を取り戻そうとしてる。


「まずはリードなどを含めた守備から教えたい。キャッチャーは構えたときに他の野手と反対側を向いていて、いつもチームメートに見られている。まとめ役であり、精神的にも大きな柱にならないと。『こいつがいれば安心だ』と言われる、キャッチャーを育てたい」


長い旅が終わることはない。


「だって、野球が好きだから」。


大好きな巨人ファンを喜ばせるため-。阿部慎之助劇場第二章が、幕を開けた。

(取材・構成 柳田寧子、高田健介)